キラリと光るキラっ人さん
キラっ人さん紹介
「社会に必要とされる人間でありたい」という想いが、仕事を続ける自分の原動力です。
- 浜中 順子さん(福島テレビ)
- はまなかじゅんこ
- 福島テレビ 報道局 アナウンス担当部長
京都府出身。小学生の頃から国語の音読が好きで、話す仕事である「アナウンサー」を目指す。東京都内の大学を卒業後、1991年に福島テレビのアナウンサーとして採用された。2011年7月からアナウンス担当部長。平日夕方5時台の『みんなのニュース』、土曜日お昼の『サタふく』などのキャスターも務めている。
アナウンサーは子どもの頃からの夢
福島テレビに入社して25年になります。「アナウンサーになりたい」という夢を叶えるために、大学4年生の春から全国各地のテレビ局の採用試験を受けました。受験したテレビ局の総数は50局。49社に落ちた自分を採用して育ててくれた福島テレビと「ふくしまの皆さん」には本当に感謝しています。子どもの頃に憧れた職業に就くことができた自分は、本当に幸運な人間だと思っています。
基本的に前向きな人間なのですが、就職活動中は心が折れそうになることもありました。最終選考に残っても採用されないことが何度も続くと「自分はアナウンサーとして決定的に何かが足りないのかも」と思うようになっていきました。
そこで夏頃に、全く異業種の会社の採用試験を受けに行きました。人事担当の方に「どうして、まだどこからも内定がないの?」と聞かれたので、正直に「アナウンサー試験に落ち続けています」と答えました。その方は、その場で私に内定を出し「3月までアナウンサー試験を受け、それでもダメだったら入社してください」と言ってくれたのです。この日「私を必要だと言ってくれる人がいる」と思えたことが一歩踏み出す勇気になって、秋に福島テレビの採用試験を受けることにつながりました。
実は、福島テレビの採用では大親友と私が最後に残りました。私に決まった時、その子は自分のことのように喜んでくれて「私の分もがんばってね」と言って別の道に進んでいきました。夢をあきらめて、涙をのんでいる人もいる。そのことを知っているからこそ、いい加減な気持ちで仕事に臨むことはできないと思っています。
忙しくても夫婦目指すところが一緒の幸せ
入社したばかりの頃の自分のVTRを見ていると、「ぽわーん」とした雰囲気で頼りなく、我ながら驚いてしまうほどです。当時はずいぶんと怒られ、涙もしました。でも、辛いとか辞めたいと思ったことはありません。仕事を通じて、色々な方と出会える毎日が新鮮で、自分というフィルターを通して様々な情報をお伝えできることにやりがいを感じてきました。「納得できる番組やVTRを作っていきたい」という想いがあり、休みの日も職場に出て仕事をしてしまうこともあります。ワーク・ライフ・バランスの部分では、私は良いロールモデルではないかもしれません。
20歳代の後半で結婚した夫とは、今も同じ職場で働いています。当時は夫婦が同じフロアで仕事をすることを避ける風潮がありましたが、会社はそのまま続けることを認めてくれました。「必要とされる人間であれば、やりたい仕事を続けさせてもらえるのでは」という思いもあり、夫婦で励まし合いながら続けてきました。
休みが一緒の日には、よく夫婦で県内各地をドライブします。素敵な風景を見ていても、おいしいものを食べていても「番組に活かせないかな」と二人とも考えてしまいます。家で料理をしていても、ハーブを育てても視点はいつしか番組の企画につながってしまいますが、夫婦の目指すところが一緒というのは、それはそれで幸せです。逆に、関心のなかったことを仕事で知ってから視野が広がることもあるので、仕事をしながら生活を充実させているともいえるかもしれません。
管理職昇進の葛藤と東日本大震災
30歳代の後半にアナウンス責任者になり、後輩を指導する立場になりました。アナウンサーのリーダーとして認めてもらえたのはありがたいけれど、番組づくりの現場から離れる葛藤もありました。それでも、先輩アナウンサーが自分を育ててくれたように、後輩に福島テレビの伝統を伝えなくてはいけない。同時に、求められる期待に応えながらも「一人のアナウンサーであることは忘れないでいよう」と思いました。
5年前の東日本大震災があった時には、アナウンサー責任者会議に出席するためにお台場のフジテレビにいました。「現場の責任者が地元にいない訳にはいかないから」と何とか翌日には福島に戻ることができたのですが、それから数日間は家には帰れずに、ずっと局内で仕事をしていました。仕事場ですれ違った夫と「やるしかないね」「そうだね」と少しだけ言葉を交わしたことを覚えています。
視聴者の方からも「アナウンサーの一言一句をこんなに真剣に受け止めていることはありません。よろしくお願いします」というメッセージが届いて「こんなに必要とされる今だからこそ、やらなければならない」と思いました。即時対応が必要な緊急ニュースが多く、入社1年目の経験の浅いアナウンサーには、本来のアナウンサーらしい仕事をさせてあげられませんでしたが、メッセージを撮ったり、絵本の朗読のために避難所に行ってもらったりしていました。その時の後輩の充実した様子を見て、「アナウンサーとして何か人の役に立てていることが実感できた時に、頑張ることができる」ことを実感しました。
人を育てる視点で「まぁるい空気」づくり
あの時を知っている後輩アナウンサーの多くが辞めてしまったことが残念でなりませんが、みんなそれぞれの道を見つけて多方面で活躍しています。今後、後輩たちが仕事を続けていける環境をつくることは、自分の課題の一つでもあります。
その中で最近意識しているのは、周りを包み込むような「まぁるい空気」です。自分が上司だからではなく、少し長く生きてきて経験したからこそ分かることを、後輩に「お母さんのような温かさ」で伝えられるようにしていきたいと思っています。
私が大好きな福島は、とても素晴らしいところです。そのことをより多くの人に知ってもらいたい。一人で伝えるよりも、後輩アナウンサーと一緒に伝えていくことで、一層広がるはずですし、より良いものになっていくはずです。福島の子どもたちが自分たちのふるさとの良さをいろんなところでPRできるような大人に育ってほしいなと思っています。
前髪しかないチャンスの神様をつかまえて
仕事の上でも、生活をする上でも「自分の想いを言葉にして伝えること」は大切なことです。これからも、機会を設けて話をすることの楽しさを、朗読会などを通して伝えていけたらいいなと思います。私がアナウンサーに憧れた子どもの頃に、本物のアナウンサーと身近に話せる機会なんてありませんでした。こちらから出向いていけば、アナウンサーになりたいという子どもがもっと増えるかもしれません。
朗読会で小学校に行き「お話するのが苦手な人?」と問いかけると、「は〜い」と一斉に手が上がります。福島はシャイな子どもが多い。だからこそ、心の中にたくさんある想いを口に出すことで「一歩踏み出すことができる」と知ってもらいたいのです。私自身、いまだに取材の申し込みなどの電話をためらうことがあります。そんな時は、自分自身に「チャンスの神様は前髪しかない」と言い聞かせます。「チャンスは誰の前にも平等に現れるけれども、来た時にパッとつかまえないといなくなってしまう」。だから迷った時ほど一歩前に踏み出した方がいい。踏み出せば世界が広がる。そう思って、私はこれからも前に進んでいきたいと思っています。(2016年10月取材)